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7月

2010

日本一の蕎麦畑、幌加内に行ってきました

    22.7.10  日本一の蕎麦処、幌加内に行って参りました。

  どんよりとした曇り空、肌にまとわりつくような湿度、天候はあまり良くなかったので、写真も暗い感じ・・・・   

  

  どこを見回しても、そば、そば、そば、そばと山以外何も見当たりません。

 

 きっと天気が良かったら、もっとすばらしい眺めなんだろうなぁーーー

 

 

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  蕎麦の花って、近くで見たことありますか?

ハート型のかわいらしい葉っぱに囲まれて、小さくて真っ白い可憐お花がたくさん咲いています。

 

  去年は、不作だったんですが、今年は良い天気が続いたので、順調に育っています。

 

 

  おいしいお蕎麦が食べられるよう、台風が来ない事を祈るばかり・・・・

取材記事一覧

2004年          「読売新聞」~歯ごたえ絶妙 田舎蕎麦

 

2004年4月9日     「日刊サッポロ」~女性蕎麦打ち職人が打つ~歯ごたえよしの田舎蕎麦と

               美味食材による 

 

2005年2月13日    「毎日新聞」~蕎麦を極める~常に一番の道産 粉で

 

2005年4月号      「ポロコ」~サッポロ10区グルメ完全ガイド

 

2005年10月31日   「北海道新聞」~自慢の一品~だし吟味 つゆすっきりと

 

2006年2月23日    「道新コミニ」~こだわり料理とおいしいお酒が楽しめる 噂のニューオー         

               プン店 

 

2006年6月22日    「北海道新聞」~壮瞥産トマトで爽やか冷製蕎麦~

 

2006年11月9日    「北海道新聞 おふたいむ」~甘みほんのり 絶妙に~

 

2007年vol78       [リプラン」~北海道で一番住んでみたい「まち」伊達に住む~

 

2007年7月号      「月刊ほっかい」~思いでテーブル~

 

2008年5月号      「ho.ほ」~趣もごちそう 伊達市有形文化財の土蔵でいただく「オムカ  

                 レーそば」~

 

2008年6月12日    「道新コミニ」~ふわふわ卵がアクセント 病み付きになる「オムカレー

               そば」

 

2009年1月15日    「道新コミニ」~食材達人 お蕎麦屋さんのカレー鍋~

 

2007年12月16日   「NHK  etv特集」~こうして町はよみがえった{移住}先進地 北海道伊                                                  

               達市  

 

2005年          「STV  どさんこワイド」~春の新メニュー トマト蕎麦~

 

               など、ほか多数。

野菜ソムリエで蕎麦屋のおやじ 自己紹介

 はじめまして、私は最近函館に越してきて、松陰町に蕎麦屋「きたわせ」をオープンした、店主の大友宏樹です。 

 

 もともとは、旭川出身の私、妻、じいちゃん、愛犬はなちゃんの3人と1匹家族は、『雪の少ない、あたたかい所で暮らしたい』、『お店と住宅がいっしょのところで生活したい』という、全員一致の強い希望で、札幌で4年、伊達で4年、そしてとうとう函館まで南下してしまいました。

 

 伊達、札幌でお世話になった皆様、移転でご迷惑をおかけし申し訳ありません。私どもは元気にやっております。

 

 蕎麦やを初めて、もうずいぶん経ちますが、函館と近郊にお住まいの方々には、まだ「きたわせ」を知らない方もたくさんいらっしゃると思うんです。

 

  そこでといっては何ですが、何度か来られているあなた、そうじゃないあなたとも、もっと信頼関係を築きたいので、あまりかっこのいい話じゃないですが、子供時代から今までのことをお話します。

 

店主プロフィール

 私は、旭川で酒屋に勤める父と、住宅街の一角で細々とラーメン店を営む母で共稼ぎ夫婦。二人兄弟の長男として生まれました。働き者で負けず嫌いの両親でした。

 

 なかでも、初めての子供だった私は甘やかされていました。お酒も配達が仕事の父は、仕事の手伝いと称して、よく小さな私を連れてあるきました。車が大好きで、いつも父の運転している横で「ブーン、ブーン」言いながら、ギァチェンジの真似をしている私に、配達帰りの田舎の砂利道、父は私をひざの上に乗せ、ハンドルを持たせてくれたりしました。

 

母の方はといいますと、放任主義の典型のような人で、中学にあがるか、あがらないかぐらいの頃、ちゃぶ台の上に一升瓶を「ボン」と置き、わたしを晩酌につき合わせたり(実は私が飲みたかったのですが)しました。

 

 その頃から少しすると、あまり芳しくない家計の足しにするために、母が夜働きに出ることになり、私にラーメンとかつ丼の作り方を教えました。

 

 夜の営業は、私一人で出前の電話を受け、母に教わったとおりに注文の品を作り、父親のバイクに勝手に乗り、出前をしていました。

 

 

 

 

 そんな大人のような子供のような、良いも悪いもごちゃまぜで、怖いものなしの生活をしていた私が、どんな人間になっていったかはお察しのとおりです。高校に入る頃には、すくすくと不良と呼ばれるような少年に育っていきました。

 

高校も途中でやめてしまい、知り合いのつてでやっと入った印刷関係の会社は、たいした仕事も覚えず、二年でやめてしまう始末。その後は手に職も持たず、革ジャンでリーゼントにしている高校中退の不良少年を、雇ってくれるところはそうそうありません。

 

 友人の紹介で何とかもぐりこめたのは飲食店で、居酒屋やワインパブなどのお店をやり手のオーナーが経営する繁盛店でした。

 

 そのお店の方針は、仕事を覚え、できるようになれば、そのつど昇給するというものでした。最初は、ホール係の仕事からスタートし、何年かすると厨房に立ち、職人さんの仕事をみて覚えていきました。                                                           

 

仕事を覚える仕事にしたがい、飲食の仕事のおもしろさもわかってきて、両親から受け継いだ気質なのか、この仕事では人に負けたくないと思うようになり、将来は自分の店を持ちたいと考えるようになっていました。

 

 厳しいお店でしたが、とにかくがむしゃらに働きました。ほぼ毎日仕込みのため、昼には店に入り朝まで仕事をして、そこから市場に仕入れに行く日々。

 

 板張りの床のワックスがけをするときは、ワックスが乾くのを待って、ピカピカになるまで何度も塗り重ねなければならないため、店に泊り込みで作業をすることも、月に何度もありました。

 

 月二回の休み以外は、欠勤することもなく仕事をつづけ、気がつくと、仕入れ、人事、営業、売り上げ管理のすべてを任される、店長になっていました。                              

 

 私が勤めて十五年位過ぎたあるとき、こう告げられました。「飲食店の部門は、業務を縮小して、新たに化粧品と栄養補助食品を販売する代理店を立ち上げる。君はそこの営業社員をやってくれないか。」

 

 私はその言葉を聞いて頭が真っ白になりました。私には正直この仕事は、まったく興味もありませんでしたし、今までやってきたことと、まったく畑の違うセールスの仕事をする気はなかったので、長くお世話になった会社でしたが、程なく辞めさせていただきました。                  

 なんとなくだった思いがはっきりしたのはこの時でした。「自分は料理で人に喜んでもらう仕事をするんだ。絶対に自分の店を持つ。」

 

 その後は二年ほど、配管の設備士で開業していた弟の誘いもあり、その仕事を手伝いました。冬でも汗だくになるような天井裏を、埃と断熱材の「チクチク」を我慢しながら這い回り、配管をする重労働です。

 

 まったくの素人の私がこの仕事を手伝えたのは、将来自分がやる店の厨房の配管を、自分でできると考えたからでした。

 

 妻と私が一緒になったのは、その頃です。

  妻が家族と経営していた家族と経営していた蕎麦店を、私が引き継ぐかたちで私と妻のお店が始まりました。そのお店は、週末には地方ナンバーの車も多く、満席で入れないほどたくさんのお客様がいらしていました。

 

 当時のそのお店では妻が、多いときには一日100食以上の蕎麦を朝から晩まで打って、ベテランのパートさん二人とお店をまわしていました。

 

 その頃はまだ、蕎麦のことは何もできなかった私は、ホールで接客を担当していました。

 

 そんな私にとって衝撃的な出来事がありました。

 

 準備していたお蕎麦がなくなった時などは、一時間近くお客様をお待たせすることもありましたが、それでも、来る人来る人に「おいしかったよ。またくるね。」というお言葉をかけていただいたのです。

 

 おせいじで言っていただいているというには、尋常ではない数でした。前のお店でそんなにたくさんのお言葉をかけて頂いたということがなかったので、びっくりしたというのが、正直なところです

  私はそのとき料理の仕事は、地味で支度とか、かたずけのような、人には見えないところの仕事が三倍もあり、派手に見えるが実はきつく長い時間働く仕事だけど、たくさんの人のためになり、喜んでもらえる誇りの持てる仕事だと感じました。

 

 それまでは、見た目や体裁ばかり気にしていて、料理の本質にきずいていなかった自分が、はずかしくてたまりませんでした。

 

 それからの私は、蕎麦屋の仕事を腹をすえて取り組みました。まず、私自身の中で一番変わったのは、料理の仕事を真剣に考えるようになったことです。プロの仕事がしたい、本当のプロの技術を身につけたいと思うようになっていったのです。

 

 ですから、友人であった「すし割烹 千成」の大将、高口さんにお願いし、仕込みの時間に店におじゃまして、料理の基本をもう一度教わりました。

 

 大将は、煮物をまぜるときのへらの使い方、カラッと揚がるてんぷら粉の配合と油の種類、だし汁を使った土佐酢の配合、刺身用の白身魚の歯ごたえを良くする下処理の仕方、はては手作り豆腐の作り方など、大将がお店で実際にされている、仕事を包み隠さず教えてくださいました

 もちろんのことながら、蕎麦打ちについても何度も失敗を乗り越えて、独学で今の蕎麦打ちを習得し、15年近く毎日蕎麦打ちを続けている妻を師匠に、その回数、年月を重ねないとわからない微妙な水回しの加減、ねりの力加減を再現できるように、何度も何度も打ち続けました。

 

 さらに、日本料理についても、料理の文化や歴史を深く掘り下げるようになっていき、蕎麦打ちや料理に関する書籍や、料理辞典を含め250冊以上も読破しました。また、一流といわれる蕎麦店はすべて食べ歩きました。

 

 そして、良い蕎麦を吟味できる目を養うため、大滝で蕎麦を栽培されている、農家の桂さんの畑に行き、栽培法や土壌のことなど細かく教えていただきました。

 

 ほかに使用する食材についても、知人の紹介を得て生産者の方に直接お会いして、私の料理に対する考え方も知っていただいてから、食材を納入していただいています。

 

 

 

 そういった生産者の方々と話させていただいて、私をが学んだことがありました。

 

 安心安全な食材を調達するために重要なこと、それは「人」だということでした。ウソをつかない信頼できる生産者のことです。

 

 そうゆう方と、ひとりひとり時間をかけて知り合ってきました。いまでは私の大切な財産になっています。

 

 また、その信頼できる生産者の大切な食材を活かしきる料理をし、お客様に提供しています。

 

   そのかいあって「あなたの蕎麦屋なら信頼できるから、使ってちょうだい。」と、北海道からエコファーマーの認定を受けている、壮瞥町の農家の横山さんが、私の店のために特別に枝につけたまま真っ赤に完熟させてくれたトマトを納入していただけることになりました。

 最近は、私の勉強してきたことの確認のため、というような思いで「野菜ソムリエ」の資格に挑戦し無事合格しました。より深く安心安全な野菜について学ぶ良い機会になったことは、まちがいありません。

 

 毎日の食事をすることは、お客様にとって自分の体の健康を築き上げる基本であると思います。そして私たちは「安心で安全な食材を使い、お客様の健康な体を守ること」これが私たちのミッションである、と肝に銘じて仕事をしてきました。

 

 そのような思いで、お店を続けて10年近く経ちました。

 

たくさんご来店くださったお客様の、口コミのおかげで、新聞、雑誌、テレビなど本当にたくさんの取材を受けさせていただきました。一部を紹介させていただきます。